「公式」と「原作」は別
あくまで持論です。
考察にあたり情報は一次ソース(一次資料)にこだわってます。
『名探偵コナン』は原作を細心細部まで徹底的に読み込んで、膨大な情報を丁寧につなぎ合わせれば、答えにたどり着ける良質なミステリーだと思っています
『名探偵コナン』という作品は歴史も長く、コンテンツも大きいため【公式情報】が膨大です。
映画やアニメやグッズやゲームも【公式】。
しかし【公式】は【原作】ではないです。
【公式情報】は青山先生が発信する「一次資料」と、それ以外に大きくわかれます。
この見極めを誤ると、余計な「不純物」の情報が入り込んで、考察が迷走してしまう。
「一次資料」の見極めは重要だと思います。
一次資料とはなんぞや?
【一次資料とは・・・?】
学問分野としての歴史研究において一次資料(いちじしりょう、英: primary source, original source)とは、対象とする時代において制作された工芸品、文書、日記、写本、自伝、録音・録画、その他の情報源を指す。これはそのテーマに関する大元の情報として利用される。
【一次資料と二次資料の違い】
一次資料は、それを引用、言及、補足した二次資料とは区別される。
一般に、事実に後知恵や歪曲を加えた記述は二次資料である。二次資料はそれをいかに使うかによっては一次資料にもなり得る。例えば回顧録は、そこに記された著者や友人に関する研究においては一次資料とみなされるだろうが、著者が生きた時代の文化を調査するにあたっては二次資料となるだろう。「一次」「二次」は相対的なものとして理解すべきで、それは特定の歴史的文脈と研究テーマに応じて情報源を区別するということである
一次資料 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ソース元を知ることで納得できるし、説得力が増します。情報は源泉が一番です。
『名探偵コナン』の一次資料と二次資料
※独断です。意見の違いは許して。
考察にがっつり使う「一次資料」
- 漫画『名探偵コナン』
- 漫画『名探偵コナン 警察学校編』
- どうぶつの森、シェリーのひとりごと
- インタビュー、対談での青山先生の発言、読者からの質問コーナー回答
- ネームの下書きや青山先生の直筆メモや直筆監修指示
一次情報ここまで。
❶に近いほど重視。執筆・発言の時系列ふくめ徹底的に見る資料。
❸❹❺は文字より映像、似た質問が多いほど、情報が新しいほど重視。
SDB(スーパーダイジェストブック)も質問コーナーと作者コメント以外は二次資料です。
考察の補足材料に使う「1.5次資料」くらい
- 『まじっく快斗』『YAIBA』など青山先生原作のコナン以外の漫画
- コナン公式アプリの「ナイショ話」などの第三者が書いたレポ、取材記事
- 複数のファンの目撃証言
- 映画などで青山先生「発案」とわかった箇所
- グッズなどで青山先生「原作」のセリフ
必ずしも原作に直結するとは限らないけれど、参考にしてる資料。
❷~❹ はほぼ二次資料。第三者の視点・伝聞を介入しているため鵜呑みにはしません。
「ここへ取材に行ったということは次はこのエピソード?」などの妄想はします。
❶、❺ は原作者発信だとしても、『名探偵コナン』本編考察に入れるかは別問題。
微妙な立ち位置「映画」
- 映画
青山先生もすごく介入している映画。
しかし映画はスタッフみんなで作り上げるもので、原作と完全に混ぜて考察するのは微妙かなと思っています。
原作者がOKを出してるからと言って、それが原作の世界観と一致するとは限らないのでは・・・。
例えば
『緋色の弾丸』
・世良にスマホ2台持ちを見せたコナン
『ハロウィンの花嫁』
・安室に7年前の萩原との思い出を語るコナン
上記の描写があるから世良や安室がコナン=新一にたどり着いたとは思いません。
「原作でもそろそろコナンの正体を知る段階に来たのかな?」とは思います。
『緋色の弾丸』
・メアリー「私は今、あの子に会うわけにはいかない」
『黒鉄の魚影』
・ベルモットがほしがってたフサエキャンベルのブローチ
メアリーの発言は「赤井」とも「コナン」とも取れるように書いてるし、ベルモットとフサエも深読みしたい方はいかようにもどうぞな感じにみえます。
考察大会が盛り上がるように、明確な答えを提示せず観た人の解釈に委ねてるようにみえます。主観です
❶だけで「答え」にたどり着ける良質なミステリーだと思っています。
私は『名探偵コナン』という作品は原作 漫画『名探偵コナン』という一次資料映画は青山先生もすごく関わってて逆輸入される部分も多いです。
しかし原作とごちゃ混ぜにしすぎると考察が変な方向に行ってしまう気がします。
うーん、映画の立ち位置は難しいです。
原作考察とは区別する「二次資料」
ここからは原作考察と切り分けて考える二次資料。
- 完全監修のグッズ、イベント
- アニメ、漫画『ゼロの日常』ほかスピンオフ作品
- 脚本家・演出家・監督・声優・編集部のコメント
- 完全監修でないグッズやイベント
「その人の考え」
脚本家・演出家・監督・声優・編集部のコメントはAさんがこう言ってた。それはAさんの意見で、青山先生の発言ではない
Aさんがその発言をするにいたった背景は妄想します。
アニメはアニメ OP・EDもスタッフの解釈
例えばOPに黒田とメアリーと世良が一緒に出た。本堂瑛祐が出た。EDに山村と降谷と長野県警が一緒に出た。若狭と羽田浩司が出たからといってフラグではない。
OPやEDを作った人は「そういう解釈なんだな」と思うだけです。
本堂瑛祐が出る再登場する可能性も、山村と降谷と長野県警が共演する可能性はあるけれど、OP・EDはフラグではないと考えています。
自分がアニメで考察対象にしてるのは「メインキャラの声優さん選定」ぐらいです
アニメオリジナルに関しては『犯人の犯沢さん』以下の位置づけです。考察対象はゼロに等しい。それほど原作無視したシナリオが野放しになってるイメージです。
映画と連動したプレストーリーさえもわりと脚本家さんの裁量で自由に描いてるイメージです。実際のところは知らんです。
グッズが出たからフラグではない
OP・EDと似てます。これのモチーフのグッズがでたからこの展開になる、ペアのグッズが出たから本編でも一緒に登場するフラグではないと思います。
発売時期に合わせて何らかのメディアミックスがある可能性はあります。
原作(一次資料)>>(がっつり考察対象にするかの壁)>完全監修>監修>監修すらしてない公式グッズ
こんな感じですかね
以上
うだうだと持論を語る雑記でした